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桔梗の花が香るとき…


それは、とある日曜日の穏やかな午後のことだった。


『あなた、ちょっと買い物行ってくるから美由紀のことお願いね』

日曜日の昼過ぎ。内藤美咲は買い物に行くため、夫の由紀夫に1歳になったばかりの美由紀の世話を頼むのだった。

『自転車で行くのか?ドラッグストアなら車で乗せてってやるのに…』

『大丈夫よ。美由紀も寝てるし起こすの可哀想だから。すぐ帰ってくるね。今夜何食べたい?』

『そうだなー、焼き魚がいいな』

『うん、分かった。じゃあ行ってくるね』

『あぁ、気を付けてな』

由紀夫は部屋の窓から、美咲が自転車で家を出ていくのを見ていた。

それから一時間後、美由紀が目を覚まし愚図り始めた。

そして、ほぼ同時に由紀夫の携帯が鳴った。

『おいおい、こんなときに電話かよ…』

由紀夫は、美由紀を抱っこしてあやしながら携帯のディスプレイを見ると、知らない番号が表示されていた。

『ん?だれだ?知らない番号だな…』

知らない番号なので由紀夫は電話に出なかった。

それから20分後…

愚図っていた美由紀が落ち着いた頃、家の電話が鳴った。

再び美由紀が泣き出した。

由紀夫は電話に出ることなく美由紀をあやしていた。

電話が鳴り終わった後、留守番電話に吹き込まれるメッセージが聞こえてきた。

美由紀をあやしながら、何となくメッセージを聞いていた。

『え?警察?事故?』

由紀夫は泣き止まない美由紀を抱きながら、警察からの留守番電話のメッセージを再生した。

事故の件で至急伺いたい事があるから、メッセージを確認次第電話をしてほしい、との事だった。

由紀夫の頭の中で、妻の美咲の事が一番に浮かんだ。

急いで警察へ折り返しの電話をかける由紀夫。

『もしもし、○○警察の塩谷様の携帯でよろしいですか?』

『はい、○○警察の塩谷です。内藤様ですね?』

『はい、内藤です。事故の件とは一体どういうことでしょうか?まさか妻に何かあった訳じゃないですよね?』

『すみませんが、確認させて頂きたいことがありまして…』

『なんでしょう!何でも答えます!妻の事じゃないですよね?事故って妻の事じゃないですよね?』

由紀夫は事故と妻が関係ないことを早く知りたかった。

『すみません。では確認させていただきます。内藤美咲さんはご存じですか?』

『…私の…妻です』

警察から妻の美咲の名前を聞いて激しく動揺した由紀夫。

『内藤美咲さんとのご関係はご夫婦ということですね?』

『はい、美咲は私の妻です!妻が交通事故にあったのですか!?』

由紀夫は信じられない思いで塩谷に聞き返した。

『はい、交通事故で⭕⭕病院に運ばれました。すぐにでも病院に来られますか?』

『あの、どのくらいの怪我なのですか?』

『怪我をしているとしか私からは言えません。とにかくできるだけ早く病院に向かっていただけますか?』

『わかりました。すぐに向かいます』

由紀夫は気が気ではなかった。

妻の美咲がついさっき家を出ていくところを見送ったばかりだ。

由紀夫には信じがたい事だった。

娘の美由紀はいつの間にか泣き止んでいて、静かな寝息をたてていた。

自分の支度を終えて、美由紀のオムツが汚れていないか確かめたところ変えたばかりのようなオムツが着けられていた。

泣いてたのはオムツの汚れだと思っていた由紀夫…。

深く考えずに手間が省けたと思い、車のキーを手に取り娘を抱いて急いで家を出た。

車のチャイルドシートに美由紀を乗せたとき、目を覚ました美由紀。

てっきり泣くものと思っていた由紀夫の予想に反して、おとなしいままだった。

美由紀が泣かないことも由紀夫にとっては都合のよいことだった。

美由紀をチャイルドシートのベルトでしっかり締めて、由紀夫は運転席に乗り込み車を走らせ病院へと向かった。

美由紀をチラチラと、ルームミラーで見ながら運転する由紀夫。

美由紀は、一人で手足をパタパタさせて機嫌が良さそうだった。

美咲はどの程度の怪我なんだろう…と考える由紀夫の頭の中で様々な思いが過っていった。

程なくして病院に着いた由紀夫は、駐車場に車を止めて美由紀をチャイルドシートから降ろして抱き上げたその時、車内から美咲のシャンプーの香りが由紀夫の鼻を掠めた。

『ん?美咲の髪の匂いだな…』

由紀夫は美咲の髪の香りがとても好きだった。

付き合い初めてから変わらない美咲の髪の香りは、結婚後も変わらないでいた。

由紀夫が髪の香りをやたらと誉めるので、美咲も夫である由紀夫が好きなら、とシャンプーを変えずにいた。

そのシャンプーの香りが、美由紀を車から降ろした時に由紀夫の鼻先を掠めたのだった。

不思議に思った由紀夫だが、いつも美由紀のチャイルドシートの横には美咲が座っていたので、シャンプーの香りがしてもおかしくないか…、そう思いながら美由紀を抱き上げ病院内の受付で名前を名乗り、事故で運ばれた内藤美咲の夫だと告げると、集中治療室へ案内された。

『え?集中治療室?妻は大怪我してるんですか?』

受付の女性は、『はい、今は治療中です。こちらです…』と言って由紀夫の先を歩き案内するだけだった。

大きな病院内は、日曜日の午後という事もあり、入院患者の面会者なのか家族連れが多く、一階の院内にあるコンビニを往き来していた。

由紀夫は受付の女性の後についてエレベーターに乗り2階で降りた。

エレベーターの斜向かいにナースステーションがあり、受付の女性がナースステーションに行き『内藤様のご家族が見えました』と告げた。

ナースステーションの中にいた女性看護士が出てきて、美由紀の顔を見て唇を噛み締める仕草を見せた。

『あの、妻は…美咲は大丈夫なんですよね?どのくらいの怪我なのですか?』

『あの…内藤さん。私共、奥様の命を何とか救おうとして出来る限りの治療を施したのですが…』

女性看護士は美由紀の顔を見て言葉を濁らせた。

『ちょ、ちょっと待ってください!治療したから無事なんですよね?妻は大丈夫なんですよね?』

『申し訳ありません。奥様の命を救おうと精一杯努力したのですが…つい先程、息を引き取りました』

看護士はそう言って頭を下げた。

由紀夫は美由紀を抱いたまま、側にあった椅子に座り込んで下を向いた。

『あの…、内藤さん…。奥様にお逢いになりますか?』

看護士が由紀夫に声をかけた。

『はい…逢わせてください…』

『分かりました。こちらです…どうぞ…』

看護士はナースステーションの隣にある集中治療室のドアを開けて由紀夫を部屋に入るよう丁寧に促した。

治療に当たっていた医師が美咲の酸素マスクを外したところだった。

美咲の顔に、痛々しい擦り傷がある以外はいつもの眠っている美咲の顔だった。

『内藤さんのご家族の方ですね?』

医師が由紀夫に話しかけた。

『はい…』

『ご主人ですね。こんな小さなお子さんがいたのですか…』

『はい…』

由紀夫は、白いシーツをかけられて寝ている美咲から目を離さず、医師の言葉に返事をするのがやっとだった。

『奥様も頑張っていたのですが…奥様の頑張りに応えられない結果になってしまい申し訳ありません…』

医師は由紀夫に深々と頭を下げた。

『…頭を上げてください、先生…。先生方は精一杯出来ることをしてくれたと信じています。ありがとうございました…子供に母親の顔を見せてあげていいですか?』

『どうぞ…』

由紀夫は美由紀を抱き直して美咲の顔の側に寄った。

数時間前には笑顔を見せていた美咲。

その事だけが由紀夫の頭の中で渦を巻いていた。

もう美咲は笑うことも、泣くことも怒ることも出来なくなったんだと改めて思うと涙が止めどなく溢れてきた。

美由紀は目の前で寝ている母親の顔を見ることなく全然別の方向へ手を伸ばし愚図り始めた。

その時、看護士が部屋に入ってきて警察が来たことを由紀夫に告げた。




          2




『⭕⭕警察の塩谷です。内藤さん…残念なことになってしまって、お気持ちお察し致します』

『あの…塩谷さん…』

由紀夫は心につっかえて取れない思いがあった。

『何でしょう』

『塩谷さん、家の電話にかける前、私の携帯に電話かけました?』

『はい、奥様の携帯の通話履歴から一番新しい電話番号に私の携帯からかけました。ご主人だったのですね』

『えぇ…知らない番号だったので…娘も泣いていたので出なかったんです…。あの電話に出ていればよかった…まだ生きていた妻に逢えていたかもしれないと思うと…やるせないです…』

由紀夫は再び涙を溢すのだった。

『内藤さん…どうかご自分を責めないでください。奥様にとっては、とても不運な事故でした。
交差点で信号無視の車にぶつかった車が反動で歩道上で信号待ちをされていた奥様を轢いてしまった事故でした。
奥様には何の落ち度もありません。
その事をお伝えしたかったのと、奥様の所持品と荷物をお渡ししたくて…。ビニール袋が破れかけていたのでパトカーに入っていたポリ袋に入れておきました』

そう言って、塩谷は美咲の携帯と財布、買い物袋を由紀夫に見せた。

買い物袋が二重になっていて中の袋だけ少し破れていた。

その中には、ホッケとアジの干物が見えていた。

由紀夫の脳裏に甦る出掛ける前の美咲との会話。


回想…

『大丈夫よ。美由紀も寝てるし起こすの可哀想だから。すぐ帰ってくるね。今夜何食べたい?』

『そうだなー、焼き魚がいいな』


美咲の笑顔と声だけが由紀夫の頭の中を駆け巡っていた。

『塩谷さん、妻の荷物…ありがとうございました…』

美由紀を抱いたまま、塩谷から渡されたビニール袋を見つめる由紀夫。

『いえ、被害者である奥様の持ち物をご家族の方に渡すのも私共の職務ですので。
それで、信号無視をしたドライバーが事故後現場から立ち去っていたのですが身柄は確保いたしました。
信号無視をした車に衝突した弾みで歩道に突っ込んだドライバーは現在別の病院で治療中です。
運転席の損傷が激しく、救急車で運ばれる時には意識が無かったと聞いております』

『そうですか…』

『では、私はこれで署に戻ります。事故の事でお聞きしたいことがあれば私に連絡下さい』

そう言って塩谷は自分の名刺を由紀夫に差し出した。

『ありがとうございます…』

由紀夫は買い物袋を持つ手で塩谷の名刺を受け取った。



翌日、美咲の通夜がしめやかに行われた。

由紀夫の会社の同僚や友人、美咲の親戚や友人が駆けつけてくれたお陰で通夜は滞りなく行われ、通夜の夜は更けていった。

美由紀の子守りをしていた美咲の妹夫婦が由紀夫に声をかけてきた。

『義兄さん、美由紀のオムツが無くなっちゃったんだけど、お家にあるかな?この時間だとお店も開いてないから…』

美咲の妹である美樹がオムツを取りに行っていいか由紀夫に聞いた。

『オムツ足りなかったか…。美樹ちゃんにお願いしていいかな』

『もちろん。私の可愛い姪の事だもん、気にしないで。車あるから往復一時間かからないと思う』

『そっか…、じゃあ遠慮なくお願いするよ。これ、家の鍵』

由紀夫はポケットから家の鍵を取り出し美樹に渡した。

『うちの車にはチャイルドシート付いてないから、美由紀はうちのお母さんに預けていくね』

『わかった。オムツのある場所は美樹ちゃん分かるかな?』

『大丈夫。この前、お姉ちゃんが新しいオムツしまう場所見てたから…』

泣き通しながらも、美由紀を抱いて放さなかった美樹は泣き腫らした目で由紀夫に微笑んだ。

美樹の笑顔に美咲の面影を見た由紀夫。

美樹に抱かれていた美由紀が、ずっと大人しかったのも美咲によく似た妹の美樹だからなんだ…、と改めて思う由紀夫だった。



          3



美咲の妹、美樹と美樹の夫である悟史は、美咲の通夜会場を後にして美由紀のオムツを取りに美咲と由紀夫の家に向かっていた。

『11時くらいには着きそうだな』

悟史が運転しながら呟いた。

『うん…』

美樹は再び哀しみに包まれていた。

『ねぇ…』

『ん?』

『エアコン効きすぎてない?』

『エアコンなら28度にしてあるよ。俺も寒く感じたから28度にした』

そう言って何気なくルームミラーを見た悟史。

後部シートに座る男の人影が、街灯に照らされて浮かび上がったのを見て悟史の身体中の毛が一気に逆立った。

『うわっ!』

車が一瞬ぐらりと蛇行したかと思ったら、悟史はスピードをあげた。

『やだっ!何!どうしたの?』

悟史の声と車が蛇行して驚く美樹。

『でで、出た…』

『出た?どうしたの?何が出たの?スピード落としてよ!』


(悟史くん、大丈夫よ。あの男追い出したからスピード落として、危ないよ)


悟史の心に呼び掛ける美咲。

その声は柔らかく、そして温かく悟史には感じた。

悟史は恐る恐るルームミラーを見ると、一瞬だが美咲の顔が見えた。

『義姉さん!』

悟史はスピードを落として路肩に車を停めた。

『えっ?やっぱりお姉ちゃん?お姉ちゃんがいたんでしょ?』

美樹が悟史の腕を掴んで叫んだ。

美樹にも、姉の美咲の声が聞こえていた。

それは耳で聞いたものではなく、心に呼び掛けられたような気がしていた。

『う、後ろに…後ろに男が座ってたんだ…』

悟史はハンドルに頭を着けたまま呟いた。

『え?男?お姉ちゃんじゃなかったの?あたしお姉ちゃんの声聞いたよ?スピード落としてって!危ないよ!って』

美樹の声は泣き声に変わっていた。

『義姉さん、俺の名前を呼んで…男は追い出したからスピード落として…危ないよって言ってくれたんだ…』

『男って…誰なの?』

怯えた表情になる美樹。

『うん…男は追い出したって義姉さん言ってたから、俺が最初に見たのは間違いなく男だったよ…。
知らない男だった。
もしかしたら葬祭場から誰かが着いてきたのかもしれないな…。
美樹の姉さんが助けてくれたんだよ…。
うん、きっとそうだよ』

悟史は自分にも言い聞かせるように、美樹の顔を見た。

『そうだね…』

美樹は、そう言って車の後部座席を見たが、姉の姿を見ることはなかった。

『よし、オムツ取りに行かなきゃな』

『うん』

悟史は義姉の美咲に感謝しつつハンドルを握り直して、車を発進させた。

美樹も、この不思議な出来事で姉は何時でも見守ってくれているんだ、と思うと知らない男の怖さも消えるくらい穏やかな気持ちになっていくのだった。

美樹と悟史が美咲の家に着いたのは11時20分になっていた。

悟史と美樹、二人で姉の家に入った。

『お邪魔します』
『お邪魔します』

悟史と美樹は同時に声に出し部屋に入った。

3年前に、美樹の姉夫婦が買った中古の一戸建て。

ガレージ付きで小さな庭がある4LDKの家は、築20年の綺麗な家だった。

結婚1年目の美樹にとって、姉夫婦は理想の夫婦だった。

そう思いながらも、美樹は悟史に自分の気持ちを言うことはなかった。

悟史自身も、自分と同じ思いだということに気付いた美樹は悟史の理想に着いていこうと思うのだった。

『いいなー。こんな一戸建てに住みたいな…』

思わず心にある思いを口に出した悟史。

『そうだね。お姉ちゃんも義兄さんも一生懸命お金貯めてたからね。
私達も頑張れば、きっとこういう家も買えるよ。
お姉ちゃんの分も幸せにならなきゃ』

『そうだな』

7月も終わり8月に入ったばかりの蒸し暑さが部屋に籠っていたが、オムツが置いてあるであろう部屋に入ると、二人はブルッと震えるほどの涼しさを感じた。

『この部屋閉まりきりだったのに、なんか涼しくないか?』

『うん、エアコンも着いてない…。
エアコンの涼しさとは違う感じだね…』

美樹が美由紀のオムツが仕舞ってある、引き出しの付いたカラーボックスの側にいくと、身体の右半分だけ鳥肌が立つのを感じた。

美樹は右腕を左手で擦った。

『どした?美樹?』

『えっ、あ…何でもない…』

美樹は姉が側にいるのを感じていた。

姉の椿のシャンプーの香りがしていたのだ。

カラーボックスの一番下の引き出しを開けると美由紀のオムツが入っていた。

それを取り出し、引き出しを閉めて立ち上がった美樹の目に、姉のネックレスがカラーボックスの上に置いてあるのが見てとれた。

『お姉ちゃんのネックレスだ…』

美樹がネックレスを手に取り眺めているのを見ていた悟史。

『義姉さんの形見として貰えたらいいな…そのネックレス。義兄さんに聞いてみるといいよ』

『うん、後で聞いてみる。お姉ちゃん、何時もこのネックレス着けてたからね。
確か、お姉ちゃんが自分で買ったネックレスだと思う。
でも、義兄さんがお姉ちゃんに買ったものなら貰えないな…』

『義兄さんなら、きっと形見分けしてくれるよ。
美樹は奥さんの妹なんだから。
俺だったら形見分けしたいと思うし…。
俺の考えと義兄さんの考えって、けっこう同じなんだぜ』

『そうなんだ…。後で義兄さんに聞いてみる』

『うん、そうしなよ。さ、帰ろうぜ』

『うん』

悟史と美樹は部屋を出ると、リビングはとても蒸し暑かった。

『やっぱ暑いな…。あの部屋タイマーでエアコン着いてたんじゃないか?』

『そうかもね』

美樹が感じていた姉の気配はリビングに出たと同時に消えていた。

美樹は、その事を悟史には言わないでいた。

暗くなった部屋の中で、美咲は一人残り窓辺で悟史と美樹が帰っていくのを寂しげに見送っていた。

不運の事故で命を落とした悔しさ。
家族と話すことも出来なくなった寂しさ。
何よりも、一歳になったばかりの娘と夫を残した哀しみ。

美咲は窓をすり抜け庭に出た。

お気に入りの桔梗の花を見ながら、想い出を振り返る美咲だった。




        4




悟史と美樹が葬祭場に戻った時には、午前0時を30分ほど回っていた。

場内には美咲の友人が四人、由紀夫の両親と美咲の両親、親戚が残っていて午前0時を回っていたが、それぞれの話し声が途切れることは無かった。

由紀夫は一人で美咲の亡骸の前に座っていた。

『義兄さん、オムツ持ってきた。美由紀は?』

美樹は少し離れたところで由紀夫に声をかけた。

『お義母さんと一緒に座敷にいるよ』

慌てて涙を拭きながら美樹に応えた。

『美由紀のオムツ取り替えてくるね』

『うん、悪いね…』

チラッと横を向いて返事をする由紀夫。

義兄は泣き顔を見られたくないのだろうと思い、美樹はそのまま美由紀のところへと行くのだった。

部屋の入り口で中を覗くと、美由紀の面倒をみていた美樹の母は、うとうとしながら美由紀に添い寝をしていた。

美由紀はといえば『あー、うー』と言いながら、天井を見ながら両手を上げたり下げたりパタパタ動かしていた。

『美樹。俺、お義父さんと話してくるよ』

『うん、お父さんもお姉ちゃんがいなくなって寂しがってると思う。話してあげて…』

美樹は、そう言って部屋に入った。

『あぁ、美樹。帰ってきたんだね』

『うん、お母さん。後は私が美由紀をみてるから休んでて』

美由紀は美樹の顔を見るなり、驚いたように目を丸くし天井と美樹の顔を交互に見てから美樹に手を伸ばした。

『はいはい。おいで美由紀。オムツ汚れてるか見てみようねー』

姉の美咲がオムツを取り替える時と同じ喋り方とあやし方になっていることに驚く母親。

『美樹、お前…美咲とあやし方も喋り方もおんなじだね。お母さんビックリしたよ。やっぱり姉妹なんだね』

『そう?お姉ちゃんのあやし方、よく見てたからかな…。無意識で同じように振る舞っちゃうのかもね…』

その時、美由紀が美樹の胸に口をあてる仕草を見せた。

美由紀が生まれてから何度も美由紀を抱いたことがあったが、美由紀が美樹にお乳を欲しがる仕草を見せたのは初めてだった。

おっぱいを出そうとしているのか、美由紀は手で美樹のブラウスを引っ張り始めた。

『お乳が欲しいんだね。美樹、おっぱい出して吸わせてごらん』

『えー、アタシお乳出ないよー』

『お前もいずれは子供を持つんだから。練習だよ練習…』

『うーん…』

少し考える美樹。

おっぱいが飲めないことに愚図り始める美由紀。

『はいはい、泣かない泣かない。お乳の出ないおっぱいだけどどうぞ』

ブラウスのボタンを外し片方の乳房だけ出すと、美由紀はそれを待っていたかのように美樹のおっぱいを口に含んだ。

そんな美樹の姿を見て母親が突然泣き出した。

『お母さん…』

『お前が美咲に見えちゃって…。美咲が初めて美由紀におっぱいを飲ませた時、その時も私が美咲の側にいたのを思い出しちゃった…』

『そうなんだ…。アタシお姉ちゃんみたい?』

『うん、美咲の仕草と美樹の仕草は小さい頃からよく似てたからね。母親の私から見れば今でも変わらないよ…』

『そっか…お姉ちゃんの分もアタシは幸せにならないとね…』

『なんで死神は美咲の代わりに私を選ばなかったんだ…。こんな乳飲み子を残して美咲が逝くなんてあんまりだよ…。順番が違うよ…』

美樹の母親はハンカチで涙を拭きながら部屋を出ていった。

その時、美樹の鼻先を椿のシャンプーの香りが掠めた。

『…お姉ちゃん…いるの?美由紀の事は心配ないからね。
義兄さんはきっと美由紀を幸せにしてくれるよ。お姉ちゃんが選んだ旦那さんなんだから…。
私もちょくちょく美由紀に逢いに行くから。
だから心配しないで?』

再び椿のシャンプーの香りがした。

それが姉の返事だと美樹は思った。

まだ子供を持たない美樹の、美由紀を見つめる瞳は聖母のように優しく、我が子に触れることさえできなくなった美咲の瞳は哀しみと寂しさに濡れていた。

母と叔母の姉妹に見つめられる美由紀は、美樹の乳房に顔をつけたまま静かな寝息をたてはじめた。

その時、美樹のいる部屋に由紀夫が入ってきた。

『美樹ちゃん、美由紀の…あっ、ごめん』

くるりと向きを変える由紀夫。

同時に美樹も上着で胸を隠した。

『義兄さん、ごめんなさい。美由紀がおっぱい欲しがるから…。アタシはお乳出ないけどね…。でも、美由紀寝ちゃったよ』

『ビックリしたよ。美咲だと思った』

『うん、お母さんにも言われた…。美由紀がおっぱい欲しがるから、お姉ちゃんの代わりになってみたら、お母さん私の姿見て泣いちゃった。お姉ちゃんに仕草も喋り方もそっくりだって。
美由紀も大人しくなって、すやすや寝ちゃった』

『美由紀の面倒ばかり見てもらっちゃってゴメンね。後は俺がみてるよ』

美樹に背中を見せて話す由紀夫。

『義兄さん、もうこっち向いて大丈夫よ』

『いいのか?そっち向くぞ?』

『大丈夫よ』

ゆっくり美樹の方を向く由紀夫。

正座をして背筋を伸ばして美由紀を抱く美樹の姿は、本当に美咲によく似ていた。

美咲より二歳年下の妹、美樹は28歳。

由紀夫は美樹の姿に美咲を重ねていた。

『義兄さん、もう少し美由紀を抱いてていい?』

『もちろん。美樹ちゃんさえよければ抱いててほしい。美咲も妹の美樹ちゃんに美由紀を抱いてもらえるなら安心していられるだろうしね。
あっ、それからオムツの入っていたカラーボックスの上にネックレスあったの気付いた?』

『うん、お姉ちゃんのネックレスだ、ってしばらく見てた』

『そっか。あのネックレス、前から美咲が言ってたんだけど美樹ちゃんにあげようかなって言ってた。
だから…近いうち取りに来てほしいんだ』

『ほんと?!お姉ちゃんの形見として欲しいです』

『うん、美咲も美樹ちゃんに着けてもらえるなら嬉しいと思うよ』

『義兄さん、ありがとう。ちょっと美由紀と一緒にお姉ちゃんの側に行ってるね』

『うん。眠くなったら俺のとこに美由紀連れてきてね』

『はい』

美樹は返事をして、部屋を出ていき姉の傍へと行った。

暫く返事の無い姉と話しをした美樹は、泣き腫らした顔で美由紀を由紀夫に預け眠りに付いた。




         5



翌日、美咲の葬儀は滞りなく行われ、四十九日後に永遠の眠りにつく美咲。

それまでは、美由紀と由紀夫の側に居たいと思う美咲。


家に帰ってきた1日目。

暫くの間は在宅勤務となった由紀夫。

四十九日が来るまでは、せめて妻らしい事をしようと思う美咲だった。

しかし、昨日一昨日とは身体の感じが全然違っていた。

葬儀の前までは、自分の足で歩いている感覚と、物に触れればその触感もあった。

頑張って美由紀のオムツも変えられた。

それが…昨日の葬儀が終わってからというもの、地に足がついていない感覚が強くなった。

今朝は寝起きの悪い由紀夫を起こそうとしたのだが、由紀夫の身体を揺することも出来ず、声をかけることも出来ない。

美由紀は、何となく母である美咲が見えているような素振りをする。

しかし、身体の感覚が分からなくなってきている今の身体では、オムツを出すことも取り替えることも、美由紀を抱く事も出来なくなった。

母として、妻として何も出来ないことが美咲にとって悔しくもあり哀しくもあり虚しいことだった。

それでも最後の時が来るまでは、愛する娘と夫の側に居たいと思う美咲。

何も出来ないと思いながらも、美由紀は美咲が見えているように手を伸ばしてくるし、由紀夫は髪の香りを感じ取ってくれる事で、母親として、妻として今までのように側に居られることだけでもいい、と思う美咲だった。

それでも美咲は、朝は由紀夫を起こし、美由紀が愚図れば側にいってあやしていた。

それが夫に分からなくても…。

例え娘に触れることができなくても…。

美咲は、そうすることで自分を慰めるのだった。

しかし、沸々と美咲の胸に込み上げる哀しみと虚しさ。

そんな時、美咲は庭に咲いているお気に入りの桔梗の花を見ては慰められていた。

美咲にとっても由紀夫にとっても、哀しく辛い日々は無慈悲に過ぎて行き、美咲の初七日の法要を迎えた。

親類縁者が集まり、そこで明らかとなった男手一人の美由紀への配慮が行き届かないことが美由紀のオムツかぶれから発覚した。

美咲の母と由紀夫の母親、美咲の妹の美樹が入れ替わり立ち替わり1日置きに来ることになった。

由紀夫の母が来れば、あれこれ小言を言われ、美咲の母が来れば恐縮して、美樹が来る時だけはリラックスする由紀夫。

美由紀も美樹が来る時だけは、あまり泣かず終止ご機嫌のようだった。

美樹が来る時だけリラックスする由紀夫。

美樹が来る時だけ終始ご機嫌な美由紀。

ちょっぴり焼きもちを焼く美咲。

しかし、美樹が来たときの美由紀のご機嫌な顔を見れば、やっぱり自分の妹だ、と思うのである。

通夜の時、美由紀におっぱいをあげた美樹は母性本能が強くなったのか、家に来る度に母乳の出ないおっぱいをあげるようになっていた。

家に来る前に乳房をきれいに洗ってくるのは、美由紀にとってありがたいことだが、家には由紀夫がいる。

まかり間違ってとんでもないことになるのではないか…等と当初は思っていた美咲。

取り越し苦労であった。

旦那を信用しないでどうする…。

そう思うと、魂となった美咲はそれでなくても暗く哀しい顔をしているのに、落ち込んだ気持ちの顔は尚更哀しみを増すのだった。

そんな時、美咲は庭に出て自分の好きな桔梗の花を愛でては心を落ち着かせていた。

暫くそんな日が続いていたある日。

一人の年配の女性が由紀夫を訪ねてきた。


『お初にお目にかかります。木ノ内と申します。この度はうちの息子がとんでもないことを…申し訳ありません』

信号無視の車と衝突した息子の車が美咲を巻き込んで殺めてしまったことに罪悪感を感じていた木ノ内は、手荷物を丁寧に横に置き、そう言って玄関に座り込み両手を着いて頭を下げたのだった。

『木ノ内さん、そんなことしないでください。あなたも息子さんも被害者ではないですか。さぁ、中へ入ってください』

由紀夫は泣き崩れる女性、木ノ内の肩に手を当て部屋に入るよう促した。

息子を亡くして、同じ被害者である女性がここまでするなんて余程の覚悟で来たのだろう…
由紀夫はそう感じざるを得なかった。

『木ノ内さん、私は貴女の息子さんには怒りも憎しみも一切ありません。警察からは詳しい状況も聞いています。
貴女の息子さんに非は無い筈です。私が憎むべき相手は、昼間から酒を飲んで運転していた男です。正直言いますと殺してやりたいくらい憎いです。それは木ノ内さんも私と同じ気持ちではないでしょうか…』

木ノ内は下を向いたまま黙って由紀夫の話を聞いていた。
由紀夫は話を続けた。

『木ノ内さんが、私の妻と私に罪悪感をお持ちであるなら、もうそんなことは気になさらないでください。貴女が私の妻や私に罪悪感で苦しんでいたなんて思いもよりませんでした。私には貴女や貴女の息子さんを責める気持ちなんて少しも無いので、どうかあなた自信の持っている罪悪感からご自分を解放してあげてください。
貴女のそのお気持ちは、妻の気持ちも癒されることと思います。息子さんにもそう伝えてあげてください』

木ノ内は、由紀夫の言葉に張り詰めていた気持ちが解放されたかのように再び声をあげて泣き出した。

『ありがとうございます…。私…なんと言えばいいのでしょう…信号無視の車がどうあれ、息子の車が事故を起こした事は間違いのないことで…そして奥様を…。その事が一日として頭から離れませんでした。
今日、こうして内藤さんにお会いできて心が休まる思いです。
本当でしたら、もっと早めにお会いするべきだと思ってはおりましたが…息子の初七日を終えて気持ちを落ち着かせてから、と思っていました…。
自分がこんな気持ちだから内藤さんも同じだと思いまして…
今日お伺いさせていただきました。
でも…お見苦しいところをお見せしてしまいました…』

木ノ内はそう言って再び頭を下げた。

その時、隣の部屋から美由紀の鳴き声が聞こえてきた。

『あら、赤ちゃんがいらっしゃるのですか?』

『えぇ、1歳の娘がいます。ちょっと待っててください』

由紀夫はそう言って隣の部屋へ入り美由紀を抱き上げリビングへ連れてきた。

『美由紀といいます』

そう言って由紀夫は木ノ内に美由紀の顔を向けた。

木ノ内はとても優しい笑顔を見せた。

それは、様々な経験をしているからこその、心から滲み出るような優しい笑顔なのだろうと由紀夫は思った。

『私にも孫がいるんですよ。息子の子供です…。お嫁さんとこれからどうしようか…、と息子の初七日を過ぎてから、よく二人で考えてるんです』

『そうですか…息子さんはおいくつだったのですか?』

『31になったばかりでした』

『私が32ですから同世代ですね。妻は30でした』

『そうでしたか、息子夫婦と同じようですね…。あの…差し出がましいこととは存じますが…奥様へ手を合わせてもよろしいでしょうか』

木ノ内は、息子と同世代である由紀夫に対して、恐縮するようにお願いをするのだった。

『それでしたら、是非お願いします。妻も嬉しい筈です』

『ありがとうございます』

由紀夫は木ノ内を隣の部屋へ通して、美樹が用意した綺麗な飾り棚に置かれた美咲の写真の前に木ノ内を促した。

綺麗な飾り棚に美咲の写真と、お洒落な線香たてと綺麗な花瓶に美樹が買ってきた紫の桔梗が花を広げていた。

木ノ内はバッグから香典を出し、飾棚に置いて線香に火を着け美咲の遺影に手を合わせた。

由紀夫は後で美由紀を抱いたまま座っていた。

少し長めに手を合わせていた木ノ内は、顔を上げて美咲の遺影に深々と頭を下げ、由紀夫に向き直ってもう一度頭を下げた。

『ありがとうございます』

由紀夫も、そう言って木ノ内に頭を下げた。

『内藤さんのお言葉と、こうして奥様に手を合わせられたことで、少し気持ちが軽くなりました。ありがとうございました。では、私はこれで帰ります。』

『こちらこそご丁寧にありがとうございました。妻にもきっと貴女のお気持ち届いてると思います。
ところで、来月の今回の事故の裁判行かれるのですか?』

『もちろん行きます』

『そうですか。私も行きますのでまたその時にお会いしましょう』

木ノ内は、由紀夫の家に来たときとの緊張感は少し無くなっていたのか穏やかな表情を見せていた。

そんな木ノ内を部屋の中から見送った美咲。

「ありがとうございました」

と言った美咲の悔やしさや哀しみは少し癒されていった。

庭の桔梗も、心なしか色が濃くなったように美咲には見えていた。



続きは明日~♪

なんだかくしゃみが止まりません
(*`゚Д´)(っ*`з´)っ・:∴

油断してると花水つつー( ̄▽ ̄;)

何かのアレルギーっぽい…


様々な人の想いをヒューマンドラマチックに書き始め、
美咲の四十九日までと、由紀夫と美由紀の数十年後を書いていくつもりです。
次回で完結になります。
良かったらお付き合いください♪

人間になった猫は、もう少し待っててね♪
(*^^*)♪

【ボタン】アニメ、リライフエンディング

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テーマ : ショート・ストーリー
ジャンル : 小説・文学

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